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HINOYAとジーンズのヒストリー

ヒッピー・ファッションブームの1970年代や、古着ブームの1990年代の後半、ジーンズは「若者の象徴」とも言われていた。しかし近年、「若者のジーンズ離れ」という言葉を耳にする。実際、街を見渡せばジーンズをはいている20代30代はほとんどいない。特に20代においては、ジーンズを一本も持っていない人もいるというのだ。

この若者のジーンズ離れのきっかけはなんだろうか。考えられることの一つは、若者が日常触れているSNSからの影響である。最近のファッションの傾向でスウェットやスラックスなど、どんな体型にも合いやすい素材や、デザインのボトムスのバリエーションが増えている。

その一方、ジーンズにおいては「着る人の体型に左右され、着こなしが難しいモノ」といった内容のマイナスイメージを含む投稿をSNS上で見かけるようになった。つまり、若者はこういった情報を受け取ることで、ジーンズを手に取りづらくなっているのではないだろうか。

しかし、ジーンズが若者のファッションから遠のいている一方、海外からの日本のデニムに対する評価は高いままである。「世界が認める日本のデニム」の中でも取り上げたように、国内にはまだまだ日本産デニムの技術を世界に発信し、また若者にデニムの魅力を伝えようと活躍しているブランドがたくさんあるのだ。

では、日本産のジーンズがこのように世界で評価されるようになった背景には、いったいどんな歴史があったのだろうか。

今回取材を行ったのは、アメ横発信のジーンズ専門店「HINOYA (ヒノヤ)」だ。日本国内でデニムの魅力を伝えてきたショップの一つで、アメカジ・ジーンズの販売数はトップクラスを誇り、現在では生産数が追いつかなくなるほど人気の国内産PB商品を販売している。

日本のジーンズショップの先駆者として、同社が変わらず守り続けているポリシーやこれからの課題などを、専務取締役の新保一洋 (シンボ カズヒロ) 氏に話を伺った。

HINOYA (ヒノヤ)
https://hinoya-ameyoko.com/hinoya/
東京・上野にあるアメ横 (アメヤ横丁) に店舗を構え、70年以上運営している老舗アメカジショップ。創始者である新保金吾 (シンボ キンゴ) 氏は、1928年に新潟県の村松に下駄屋として「ひのや」を創業。その後、1949年に東京・浅草通りにある本願寺入口の角で和菓子屋として今川焼きの販売を始めたが、戦後に高値で売れた米軍の放出品を販売する事業に転換、今のHINOYAのベースを築いた。1973年には株式会社ヒノヤを設立、1990年代後半~2000年初頭にかけては日本でも多くのリーバイスの販売数を誇り、ジーンズ専門店として知名度を上げるに至った。現在は国産アメカジブランドがメインの「HINOYA」、国内外のブランド品を中心とする「Sun-House (サンハウス)」、リーバイスのフランチャイズ店舗である「Levi’s Store (リーバイスストア) 上野店」の運営をしている。

ジーンズ販売数トップクラスの実績を持つHINOYA

HINOYAが誕生した経緯を聞かせてください

− 新保氏コメント:1925年に祖父が新潟県で下駄屋として「ひのや」を創業しました。その後、1941年に上京して東京・神田で喫茶店を営みましたが、第二次世界大戦が始まり新潟に戻ります。終戦後に再び上京し、今度は東京・浅草で和菓子屋として今川焼きの販売を始めることになりました。

その頃、近隣で米軍の中古品を扱う用品店が次第に増え始め、当時は米軍のパンツが1本1000円ほどで売られていたんだそうです。それに比べ、1個5円の今川焼きの商売は、1日どんなに頑張ってもパンツの売上金額の半分にしか届かず、隣りでどんどん売れていくパンツを横目に見ながら、少しずつ米軍の放出品の方にビジネスの可能性を感じ始めていました。

− 新保氏コメント:そして1953年、米軍の中古品を扱う商店として業態をガラッと切り変えます。それが、今の「HINOYA」の土台です。

当時は古着を人から買い取り販売していましたが、需要の高まりに合わせてそれだけでは間に合わず、市場の競りでも手に入れるようになりました。

そのような商いを続けていくなかで、上野から浅草、浅草から上野と店舗の移転を繰り返し、1959年に現在の上野・アメ横を拠点にHINOYAの店舗展開を始めます。そして1973年に株式会社ヒノヤを設立しました。

1959年の本店
当時の営業許可証や顧客データ

当時はどんなアイテムが主流でしたか?

− 新保氏コメント:会社設立後は米軍の中古品に限らず、リーバイスを中心としたジーンズの並行輸入品を販売していました。そして、1982年にリーバイ・ストラウス ジャパン株式会社が設立されると、我々に正式な取引契約のお話をいただいたんです。

また、この頃はイタカジと呼ばれたイタリアンカジュアルファッションが流行した時期でもあり、トラサルディなどイタリアのジーンズも取り扱いましたが、それから1990年代後半に一大ブームとなったリーバイスのレプリカジーンズによって、アメカジの商品をメインで取り扱うことになりました。

リーバイスのレプリカブームについて教えてください

− 新保氏コメント:デニムの種類のなかに、生地の両端にあたる「耳」と呼ばれるほつれ防止の処理がされた部分 (=セルビッジ) が特徴の、セルビッジデニムというのがあります。

このセルビッジデニムは旧織機で織られ、少量生産しかできないことや、表面が凸凹する特徴的な仕上がりが、ジーンズファンの心をつかみ、注目が集まりました。

また、芸能人が100万円を超えるリーバイスのセルビッジ・ヴィンテージジーンズを購入したことなども話題となり、セルビッジデニムの人気はとどまるところを知らず、当時の若者を熱狂させていたんです。

− 新保氏コメント:このような状況にビジネスチャンスを見つけたリーバイスは、ブームに拍車をかけるようにヴィンテージを再現すべく、セルビッジジーンズのレプリカ「501XX (501ダブルエックス)」を製造します。こうしてリーバイスのレプリカブームが始まりました。

あの頃はリーバイスのレプリカジーンズが入荷されると、お客さま同士で奪い合いになるほど飛ぶように売れていましたね。そのなかで、当店でのリーバイスの販売数は日本でも上位でしたから、優先的にリーバイス商品の仕入れができ、どこよりも品数が豊富だったんです。

レプリカブームと共に変化するHINOYA

レプリカブームが与えた影響は何だったと思いますか? 

− 新保氏コメント:レプリカブームは、現在、世界から高く評価されているデニムのJAPANクオリティに大きく貢献しました。

あるとき、ジーンズに精通した著名人が「自分の所持しているヴィンテージと比べてみると、市販のレプリカ商品の再現度は低い」と指摘したことがありました。そのことがきっかけで日本人の職人魂に火が着き、各メーカーはリーバイスのヴィンテージデニムのようなジーンズを我先に再現しようと研究を重ねます。そこにはヴィンテージのジーンズを分解し、染色の仕方や生地構造などを繰り返し分析するという、技術者の努力と研究の積み重ねがあったんです。

こうしたレプリカ商品の製造を試行錯誤していくなかで、各メーカーは独自の技術を身に付け、ジーンズのオリジナルブランドをこぞって開発するようになりました。

つまり、レプリカブームが各メーカーにデニムの分析や開発の競争を引き起こし、結果、高品質な日本のジーンズブランドを世に知らしめたと言っても過言ではありません。こうした研究の末に、日本製デニムのクオリティは海外からも高く評価されるようになりました。

そのJAPANクオリティを活かした取り組みについて教えてください

− 新保氏コメント:JAPANクオリティを活かして、今や生産が追い付かないほどの人気となった自社ブランド「BURGUS PLUS (バーガス プラス)」を立ち上げました。

それは、リーバイスに匹敵するクオリティの日本製ジーンズを、我々自身でも一から作って世に普及させたいという、「脱・リーバイス」の精神がきっかけでした。

なぜ脱・リーバイスの必要があったかといいますと、リーバイスのレプリカブームも次第に落ち着きを見せたころ、リーバイスは小売店への販売に頼ることなく、フラッグシップストアを東京の原宿にオープンさせ、直販での売上を作っていきました。そして徐々に、我々もこれからはリーバイスに頼り過ぎてはいけないと思い始めていたんです。

自社ブランド展開の目的としては、世界からも認められるJAPANクオリティのジーンズの需要を補いながら、多くの消費者に日本製デニムの良さを伝えていくことでした。

どんなブランドですか?

− 新保氏コメント:一般的に自社ブランドを展開するということは、当然仕入商品の販売よりも大きな利益を期待しますが、我々のブランド開発の重要事項は利益追求ではありません。

一番に目指すところはジーンズ専門店としてのプライドを持って、一から本物を作るということです。そのため、たとえ上代設定には見合わない原価率を設定してでも、ジーンズメーカーと同等のクオリティの生地や縫製を追究してきました。

当社にはもともとリーバイスで働いていたスタッフが揃っていることもあり、生地、縫製、規格のこれら全て、リーバイスに負けない高いクオリティでの製造が可能だったんです。

現在、生地の製造と縫製においては、国内外でデニムの聖地として有名な岡山県の工場で行い、価格はお客さまが手に取りやすいようなリーズナブルな設定を心掛けています。こうした高品質低価格の商品が提供できるのも、直販だからですよね。

この高品質低価格に消費者からもご好評いただき、コロナ禍でアパレル業界全体の業績が伸び落ち込んでいくなかでも、我々の商品はとても早い回復でした。

BURGUS PLUSの商品をご紹介いただけますか?

− 新保氏コメント:今取り扱っているのは主にセルビッジのジーンズですが、チノパンも同ブランドの定番商品です。この商品は同業者からもシルエットやはき心地の良さに定評があり、多くの方にご愛用いただいています。

店頭では「はじめの一本、一生の定番」と紹介し、人気商品の一つになりました。

「魔法のチノパン」とも呼ばれるシルエットが美しい人気商品

これからの展望を教えてください

− 新保氏コメント:まず自社ブランドに関しては、我々の個性を活かしながら「本物」をキーワードにしたモノづくりに、さらに力を入れていきたいと思っています。

我々のショップの強みは、豊富な品揃えとストーリー性のある商品展開、そして宝探しのように楽しめる店内と丁寧な接客です。この強みを持って、気取らない街、アメ横からジーンズ商品を筆頭に、お客さまの心が豊かになる商品を、今後も発信したいですね。

そのためには、なぜ我々がこれまで支持され続けてきたのかということを今一度振り返り、心を込めた接客や商品の見せ方にも工夫を凝らしていかなくてはいけません。

どんな世の中のブームや社会情勢の変化にも、自信を持って向き合えるよう、こうした原点回帰の意識を大切に、ひたすら進んでいこうと思っています。

インタビューにお答えいただき、ありがとうございました。

時代の変化に適応する強み

時代が変わればジーンズのトレンド、購買者の価値感の他、商品価格にも変化が伴う。そういった変化にもしなやかに対応できるのは、社会情勢やトレンドなど、いくつもの苦境や変化を乗り越え歴史を紡いできた企業だろう。

たとえば、ファッションの多様化が進み、若者のジーンズ離れが起きた今でも、「本物を届ける」という軸を持ちながら突き進むHINOYAのような企業だ。同社のような企業が、ファッション業界の落ち込みを回復する担い手になる。

どんな事業でも、変わりゆく時代のなかで起こる危機に打ち勝つためのノウハウが必要だ。

HINOYAの事例では、長年の経験が武器になり、危機を乗り越えられたのだろう。つまり、たとえ今はまだ事業を立ち上げたばかりの経験値が浅い企業であっても、うまく時代の流れをキャッチしていくことの積み重ねによって、どんな壁や変化にも対応できる芯の強さを持った企業になりうるのである。

そして、その経験の積み重ねから得られるものは、技術やクオリティの向上、そして消費者からの信頼であり、つまり、こうして歴史を紡ぐこと、それ自体が一つの戦力になるのだ。

MMD TIMESは同社のように地に足を着けて歴史を紡いでいく企業の動向を、これからも追いかけ応援していきたい。

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